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仕事をつくるしかない

● 貧困、障がい、失業などによって社会的に排除excludeされた人々を社会に包摂includeしていこうとするのは、最も重要な政策課題の一つです。政府部門で十分に対応できないのであれば、民間部門で補わなくてはなりません。その意味で「派遣村」のような活動は評価すべきです。ところがボランティア団体などが運営している間はともかく、政府部門が介入しすぎると厄介な問題が持ち上がることがあります。

● 公園に住み着いて自発的に清掃などをしている路上生活者の中には、どこか毅然とした雰囲気の人がいます。そういう人、なんとかやっている人は「官製派遣村」に最初から来ないかもしれません。その結果、想定外の人たちが相対的に多く集まるおそれがあります(逆選択)。そういう人たちが「官製派遣村」に入ると、今度はルールを濫用してしまいがちです(モラルハザード)。報道によれば、年末年始を東京都の「官製派遣村」で過ごした人は500人超。就職活動費として1人2万円あまりを渡したところ、すぐに飲酒に遣ったり、無断で外出したまま帰ってこなかったりした者が少なからず出てきたといいます。

■ 12月31日付け共同通信で内閣府参与の湯浅誠氏──当初の「派遣村」の主宰者です──のインタビュー記事をみました。記事の見出しは「危うい“区分け”偏見残る」。職業相談や生活支援を一つの窓口でおこなう「ワンストップ・サービス」への協力を依頼して回ったところ、ある市長から「ホームレスが来るのならしない」といわれ、15年前と「偏見が変わっていない」と感じたということです。が、これは市長や市議会の立場になってみれば理解できないことではありません。所得再分配にかかわる仕事を特定の地方政府に過度に委ねてしまうと、担税力とは関係のない人たちが集中するといった問題につながるからです(地方分権の失敗)。

● 中央政府の重要な役割は、所得再分配とともに金融財政政策です。英国の福祉政策の理念としてブレア内閣から使われている“welfare to work”は、社会的に排除された人たちを福祉の対象者から労働の主体へ適切に誘導することを意味します。紹介しようにも仕事がなければ無理なのは道理。まずは仕事をつくり出さなくてはなりません。であれば、2008年12月12日付けで提案した「Green Public Works」などは大いに検討に値するのではないか。

“地域主権”への抵抗感

● 私は、中央省庁の再編・統合にあわせて、さらなる地方分権を進めるべきだと考えます。その一方、道州制ビジョン懇談会中間報告で使用され、民主党の政権公約でうたわれた「地域主権」という言葉には、なかなか馴染めません(最近の報道によると、総務省に「地域主権室」(仮称)を設置するということです)。

● もっと以前には「地方主権」という言葉がありました。行革国民会議は1989年11月に地方主権研究会を設置しています。1993年には『連邦制のすすめ─地方分権から地方主権へ─』を出版しました。メンバーは、島根県知事を辞められてまもない恒松制治氏、行革国民会議の並河信乃氏、松原聡氏など。

● その後、1996年にはPHP研究所が主宰する研究会が『日本再編計画―無税国家への道─』を発表しました。メンバーは、斎藤精一郎、本間正明、黒川和美、跡田直澄、齊藤愼らの錚々たる研究者に加えて、当時はPHP研究所副社長の江口克彦氏(道州制ビジョン懇談会座長)。同著では「地域主権」のもとで「州府制」を導入することが提唱されました。

■ そんななか1990年代半ばごろのことです。私は、地方シンクタンクの研究員として国や地方自治体の委託調査に携わっていました。ある報告書のなかで「地方主権の進展に対応して行政体制を整備すべき」といった主旨の文章を書いたところ、委託元の担当者から「個人の文章で使うのならともかく、この種の表現を県や市の報告書で使用するのは望ましくない」と指摘されました。「普及していないし、フランス革命の理念や日本国憲法に照らしておかしいから」というすこぶる真っ当な理由です。

● 前著では「主権という言葉を社会における個人の人格権というように解釈すれば、国家主権と呼ばれると同じように地方主権が主張されることも不可解なことではない」とされています。後著では「地域が統治の主体として自己決定し、さらに他地域と“善政競争”をしていく姿」とあります。これらの字面だけみていると、それほど抵抗なく受け容れられそうです。とはいえ、「地方主権」あるいは「地域主権」というのは「民族自決」self-determinationに匹敵する含意を持つのか、ましてや“sovereign power”のことを意味しているのか、あるいは財政の担保があるのかと問われると、途端に自信がなくなります。

● 私の場合は、かつての体験がいわば心的外傷になっていることも影響していると思います。いまなおもやもやが晴れないでいたところ、地方自治体の首長のなかに「地方主権」「地域主権」という言葉を使いたがる人が多いのは「勘繰れば“住民主権”とは言いたくないのが本音だと思われる」(『日経グローカル』2009年9月7日号)という日本経済新聞社の中西晴史氏の指摘は明快でした。

明るい未来

■ 3月にようやく『地方分権の失敗 道州制の不都合』を刊行しました。そのあとすぐに「曲がり角の自動車産業と地域経済」「財政調整の考え方」「地方分権と財政調整」「発生地ベースの地方税源からみた財政調整」の作成に追われました。さらに著書のことで、経済同友会地方行財政改革委員会(委員長:池田弘一アサヒビール会長)などの講師に呼ばれ、それらの準備をしなくてはなりませんでした。梅雨の中休みではありませんが、きょうになって半年ぶりの更新です。
  ※掲載誌は、順番に『季刊 中国総研』No.46、『地域経済研究資料0901』、『エネルギア地域経済レポート』No.41、日本計画行政学会中国支部大会原稿です。


■ この間、気になる新刊にはなるべく目を通すようにしました。たとえば駒村康平『大貧困社会』、伯野卓彦『自治体クライシス』、木村英紀『ものつくり敗戦』、山下一仁『農協の大罪』、東谷暁『日本経済の突破口』、北沢栄『亡国予算』など。なかでも特筆すべきは増田悦佐『格差社会論はウソである』。

■ 氏の『高度経済成長は復活できる』(2004年)は好著なのですが、地方の目線からすれば何らかの反論をせざるをえないと思わせる問題提起の書でした。いずれ反論を述べたいと思っていたところへ、今度の新刊は400ページを超える大著。「日本人は執筆量を自制しがち」という主旨の記述がどこかにあったはずと思っても、あとから探し出すのが億劫になるほどです。

■ 日本の知的エリートは厚みが薄いうえに悲観的。むしろ日本の強みは、要求水準の高い大衆の層が厚いこと。知的エリートとの知的格差は実際には小さい。子どもや大衆の判断を尊重すべき。危機や不安を煽る知識人の言説に惑わされないこと。偏見や差別をなくせば日本の将来は明るい──というのが氏の主張です。

● 同著を読んでしばらくして、NHK広島放送局のディレクター氏から問い合わせがありました。「“ふるさと発スペシャル”というシリーズのなかで、中国地方のビジョンにつながる番組を考えている。おもしろい取り組みや人材を知らないか」というものです。思いついた人たちや取り組みを紹介しました。私自身は、「観光振興をするくらいなら、雇用対策を兼ねて山林を“もののけ一族”に返すことを優先すべき」「国内の自動車産業そのものは縮小する」といったように、増田氏の指摘ではないのですが、悲観的な材料提供ばかり。

■ で、生まれた番組が「ちゅうごく未来ビジョン 中国地方“アジアの楽園化”計画」(2009年5月29日放送)。VTRに撮ってあとで見たのですが、なんと“パラダイス”です。明るかったですね。私が担当している留学生がたまたまレポーターに採用されるというおまけまでありました。増田氏の著書と絡めて、考えさせられるきっかけになりました。


※私の著書『地方分権の失敗 道州制の不都合』の案内です。
http://www.gentosha-r.com/products/9784779004469/

経済危機の震源は日本?

● 16日(火)午前、広島県が主宰する戦略的産業活力研究会の全体会議がありました。この研究会には100を超える企業・団体や大学関係者が参加し、自動車産業のエレクトロニクス化、軽量化およびリサイクルという3つの分科会に分かれて定期的に研究交流を開催しています。その成果の1つとして、2008年夏にはカーエレクトロニクス・センターが開設されました。

● その全体会議で、私は会長として開会あいさつをしました。大意、以下のような内容です(これは、2008年3月の全体会議で私がおこなった「自動車産業と地域経済」という講演をふまえたものです)。
(1)自動車産業は、国内に関する限り「斜陽産業」といってもおかしくない。
(2)1985年の円高不況やバブル崩壊後の長期低迷は、日本がひとりで勝手に転んで起きたものであり、日本さえ立ち直れば、その後は外需主導で回復した。しかし、今回の経済危機の影響は世界的規模で広がっている。長期化が予想される。
(3)このような状況に活路を開くのは技術である。ものづくりを軸に愚直(伊丹敬之・一橋大学名誉教授)かつ柔軟に対応していくことが期待される。

■ 国内の自動車産業が大きな曲がり角にあることは、国内販売台数がすでに減少していることにも現れています。今回のあいさつでは、曲がり角の指標として、2つのことを取り上げました。1つは付加価値額からみた成長曲線です。エレクトロニクス産業の成長曲線は、緩やかな「S字」を描きながら、長期的には上向いています。ところが、自動車については2000年前後をボトムに上昇してきましたが、どうやらピークを迎えているようなのです。エレクトロニクス産業については、コモディティ化が進み、デフレの圧力にさらされても、新製品が登場してきます。たとえばテレビのモニターは、ブラウン管から液晶やプラズマに交代し、さらに有機ELの商品化が見込まれています。他方、自動車は所詮、自動車です。内燃機関や制御システムが進歩しようとも、基本的には「T型フォード」の時代と大きく異なっているわけではありません。

■ もう1つは、広島県の自動車産業です。県内総生産(県民経済計算)に対する自動車製造業の付加価値額(工業統計)の割合をみると、2001年から2005年にかけて、全国では2.1%→2.6%に拡大しました。特に愛知県については12.1%→13.6%に上昇しています。一方、広島県については2000年代に順調に伸びたものの、ウエイトは2.8%→2.7%に相対的に低下しました。これは、自動車産業の関係者にとっては不満かもしれませんが、広島県経済にとっては産業構造の「多様化」を意味しているともいえます。このことは、地域経済政策の検討に際しても考慮せざるをえないのです。

● 実は、あいさつの準備をするために、事前に目を通しておきたい雑誌がありました。『週刊 東洋経済』の12月20日号です。自動車産業を特集するという広告を日曜日の新聞で見かけました。月曜日の夜、書店に立ち寄ったところ、広島での販売は火曜日ということでした(遅いのです!)。結局、同誌を入手したのは火曜日の夕方でした。興味深かったのは、自動車ジャーナリストの清水和夫氏と自動車産業アナリストの中西孝樹氏の対談です。現在の自動車はテレビでいえば「ブラウン管」という清水氏の指摘は、私の話と同じです。中西氏によれば、トヨタの営業利益6,000億円というのは損益分岐点ぎりぎりであり、同社のビジネスモデルは「破綻とはいえないが、挫折に直面している」ということです。

■ そのあと野口悠紀雄教授の新刊『世界経済危機─日本の罪と罰─』(ダイヤモンド社)を読みました。同著によれば、日本は今回の経済危機の震源であり、中心にいるということです。どういうことかというと、わが国は低金利・円安誘導政策を続けてきました。円安であれば輸出は活発化します。獲得された米ドルは、「円キャリー」でアメリカに還流します。これはアメリカの金融市場や住宅市場を活発化させました。日本の輸出はさらに増えます。そのバブルがはじけ飛んで、世界的規模で影響を及ぼしています。なかでも日本については、低コスト資金を世界中にばらまいた“罪”の代わりに、これまでアメリカの食い物にされ、これからさらに大きなツケを支払わされるという“罰”を背負わなくてはなりません。輸出産業の代表は自動車です。つまり、以上をまとめていうと、「日本の自動車産業は、円安に乗ってアメリカでの自動車販売を増加させ、そこで得たドルをアメリカに投資し、(結果的には)住宅ローンを支援し、住宅価格バブルの増殖に手を貸した」ことになります。

■ いずれにしても自動車産業は、大きな曲がり角を迎えていることに変わりはありません。野口教授は「脱ものづくり」を主張していますが、日本の地方都市からものづくりがなくなると、ヨーロッパの地方都市以上に悲惨な状況になると私は考えています。日本の自動車産業については、コモディティ化する方向とプレミアム化する方向の両極が考えられます。どちらの方向に向かうにせよ「ブラウン管」から脱却するためには、自動車の社会的性格をもっと重視すべきだと思います。自動車が走るためには、道路、橋梁、歩道、横断歩道、信号機などが必要です。ドライバーが運転ルールを守るのは当然のこと、歩行者も交通ルールに従わなくてはなりません。これは、テレビや携帯電話とは大きく異なる特徴です。資源・エネルギー問題をはじめ、排気ガスや騒音といった自動車の「社会的費用」の問題を含めて、自動車を社会経済システム全体の中でとらえ直すことが問われていると思います。今回の経済危機をそのきっかけにしなくてはいけない。

Green Public Works

● 1980年代半ばの急激な円高は、主に日本だけの問題でした。90年代の長期不況は、いわば日本がひとりで勝手に転んで始まりました。両期間ともに海外の需要は堅調でしたので、日本さえ立ち直れば、その後は輸出主導で比較的順調に成長したといえます。ところが、今回はどうも長期にわたる調整が世界的規模で必要となりそうです。特に深刻なのは雇用問題。最も脆弱な非正規雇用者にいち早く影響が現れました。のみならず正規雇用者についても人員削減が始められつつあります。新卒者の就職は、一転して「超氷河期」に突入することが懸念されます。

● 金融政策の手段は限られてきましたので、大型の財政出動への期待が日増しに高まっています。その一方では大幅な税収減が見込まれているため、抑制されてきた国公債の発行を拡大せざるをえません。道路特定財源についても、一般財源化どころではないという政治家たちの意見が優先されました。かといって、旧来型の公共事業の乱発はぜひとも避けなくてはなりません。どうせ何らかの公共事業を実施するのであれば、当面の雇用対策に貢献するはもちろんのこと、良質のストックにつながるものであること、できれば人に対する投資であることが望まれます。

■ であれば、超大型のGreen Public Worksはどうか。数年から10年くらいかけて、荒廃した森林の手入れ、自然林や里山の復元、コンクリートだらけの農山村の景観修復などをおこなうという提案です。80年近く前、世界大恐慌のあおりで窮乏した農村を救済するため、高橋是清は「時局匡救事業」を実施しました。そのとき造られた砂防ダムなどは、いまなお各地に伝えられています。同じころ、フランクリン・ルーズベルトは「民間保全隊」(Civilian Conservation Corps)を設置しました。当時のプラグマティズムに基づく青少年活動と失業対策を組み合わせたもので、のべ数百万人の若者が数か月から数年のあいだ森林保全活動に携わりました。アメリカの美しい国立公園は、このときに基礎が整備されたといいます。

● 超大型のGreen Public Worksによって、失業対策に即効性が見込まれます。森林保全活動をしながら別の職業訓練をするためにも、まずは生活基盤が必要です。宿舎として廃校などの利用が考えられます。仮設住宅を新設してもよいと思います。仮設住宅は大規模災害時に利用できます。雇用された人々のなかには、地域に定住する人も出てくるでしょう。山林の手入れについて地元の人たちが指導することで、生きがいにつながります。間伐材を利用した工芸品づくり、バイオマス燃料の開発などへの広がりが期待されます。環境学習やグリーンツーリズムとの組み合わせもおもしろそうです。都道府県境を越えて流域圏単位で取り組むことにより、道州制移行の練習台にもなると思います。

● その一方、何かを選択することは、ほかの何かを犠牲にすることを意味します。国公債がふくらむと、当面は円高傾向が続きます。輸出企業にとっては厳しさが増します。外国人観光客の入り込みは減ります。しかし、「あれもこれも」は無理なのです。これらの問題が生じたとしても、やがて日本人にも外国人観光客にも魅力ある美しく安全な国土が必ず約束されます。「超大型」といっても、人にかかわる投資はその効果のわりに案外少なくて済むはずです。1人500万円、年間10万人としても5,000億円。合計で8兆円あまりという8地方整備局の予算に比べればタカが知れていると思います。

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