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日本が壊れる?

● 1998年後半にNHKで「やんちゃくれ」という連続テレビ小説が放映されました。その支離滅裂なストーリーのせいで日本が壊れ始めたのではないかという説を聞いたことがあります。こんな変なことをいうのは渡辺喜美氏ではなかったかと思って探してみましたが、すぐには見あたりません。むしろ同氏によれば、日本の転機は何でもありの自社さ連立政権が成立した1994年からだということです(石原ほか[1])。

● それから10年以上も経過したにもかかわらず、ますます軸が定まりません。その間隙を縫うかのように出てきたのが経済産業省編[2]。分析はおもしろいのですが、その対応策はというと、城山三郎が描いた栄光の日々を彷彿させる時代物。パチンコ店や理美容院で「きょうは公休日」という張り紙をときどき見かけます。いまどき征夷大将軍様のお許しをいただいたかのような経営者の心性も情けないのですが、そのように馴致された仕組みこそ問われるべき。生産性向上を図るというのなら、企業にも判断のしようがない成長分野をうんぬんするより、規制緩和や権限移譲に取り組むのが筋のはず。経済産業省編[2]の出版社が経済産業調査会というのも時代がかっているように思えます。

● 岩田[3]によれば、新成長戦略の一番の問題は、政府と民間の役割に関する理論を欠いていること。そのような視点から岩田[3]は、高速道路の無料化、子ども手当、農家への戸別所得補償などの政策──さらに持論の日本銀行問題──を点検しています。同様に最近の政治動向を分析したものとして小峰編[4]もおもしろく読めます。岩田[3]は、地域経済の問題に踏み込んだついでに、地方分権のことに言及しています。すなわち「上からの地方改革を待つのではなく、国の地方分権に向けての改革の不十分さを指摘し、その先を行かなければならない」という指摘です。

● これは、もっともなことです。伊藤[5]でも検討したとおり、現政権において地方分権のことがますます劣後化していることには注意する必要があると思います。現政権は、軸が定まらないまま政治主導を唱える一方で「大きな政府」を志向しており、おのずから政治主導が制約されるという意味で官僚依存にならざるをえません。2010年6月に閣議決定された「地域主権戦略大綱」にしても、中央政府・地方政府間での権限・税財源の配分にかかわる問題という意味での地方分権のことは、真正面から取り上げられていません。知事・市町村長のことにふれても住民自治のことには言及していません。現政権における地方分権の問題をめぐっては、増田[6]のなかで、増田寛也・片山善博が官僚出身の知事経験者ならではの興味深い対話をしています。

■ そのようななか齊藤[7]は、1990年代以降の日本経済に関する通念を淡々と検証しながら、きわめて重たい問いかけをしています。たとえば、貧困問題に目を奪われて「多数の安堵」を放置したせいで、人々の緊張感が失われ、社会経済の規律が劣化したのではないか。あるいは高コスト体質や低生産性の問題は、日本で市民活動が貧弱であったことと表裏一体であり、競争と真摯に向き合うためにも市民活動が必要ではないか──といった主旨の問題提起です。考え込まされます。市民活動を原点にしているといわれる現政権は、時代の大きな変化に対応して新たなビジョンを描く好機であるはずなのに、齊藤[7]の問いかけからますます逸れていく感がします。

● 私は、学部の授業を担当したときに短い時間ですが、投票のことと公的年金制度のことを取り上げるようにしています。無視しえないほどの世代間不公平を放置することは、もちろん問題です。このことは、2010年7月9日付け本欄で紹介した城ほか[8]、同著の執筆者の1人でもある小黒[9]などが鋭く指摘しているとおりです。その一方、地域や世代を超えた分かち合いに関する理念がしっかりしていないと、ただでさえ国内市場が縮小し劣化しつつあるなかで、ほんとうに日本が壊れてしまうのでないかという気がします。そういう意味では1年前に出た上野・辻元[10]の対談は、ときに突き放したような発言にげんなりさせられることがあるものの、それなりにおもしろく読みました。説得力という点では、むしろ白波瀬[11]があります。白波瀬[11]は、子ども、若者、女性、高齢者に関する格差問題を詳細なデータで解説したうえで、さまざまなリスクをみんなで分散することが望ましいという提案をしています。それが「お互いさまの社会に向けて」という副題になっています。神野[12]は「分かち合い」という言葉をそのまま書名に使っています。

● そのようななか公的年金制度について警鐘を鳴らしているのが鈴木[13]と鈴木[14]。厚生労働省と日本年金機構(旧社会保険庁)が公表している資料にごまかされないよう注意を喚起しています。特に鈴木[14]については、年金不信になっては困りますが、公的年金制度を考えるための1冊として学部生に勧めたいと思います。鈴木[13]と鈴木[14]では、世代間の不公平を拡大させている現行の賦課方式に代えて早期に積立方式に移行すること、基礎年金の原資として消費税を充当することが提案されています。その消費税について取り上げるのは「思想的偏向者であるかのように受け取れられる」のを承知のうえで、あえて問題点を指摘したのが斎藤[15]。斎藤[15]は、中小零細企業にとって消費税は益税ではなく「損税」であること、大企業にとっては輸出時の還付金が巨額であること、消費税は実態としては売上税であることなどを指摘しています。滞納率が異常に高いのは消費税制そのものに問題があるからだとも述べています。滞納率の問題については、地域的要因との関連を点検してみたいと思いました。

● 神野[12]は、しばしばスウェーデンを引き合いに出します。そのスウェーデンというのは、ある意味で中小零細企業に冷たい社会といえるかもしれません。高福祉を維持するためには高負担が必要ですが、そのためには雇用を吸収し、高負担に対応した報酬を被雇用者に支払うことのできる企業がなくてはなりません。それができなければボルボやサーブですら、いわば見放します。雇用の流動性を高める一方で、職業訓練や知識習得の機会が充実しています。橘木[16]は、日本の公的教育支出が低い理由の1つは、教育を主に私的財とみなしているからではないかと述べていますが、人口が1,000万人に満たないスウェーデンの場合、こぢんまりとしているがゆえに教育も介護も公共財とみなすことが容易なのでしょうか。

● かといって「ぬるま湯」につかっているわけではありません。スウェーデンの社会経済を概観した北岡[17]によれば、「スウェーデンほど市場経済を有効に機能させている国はない」ということです。北岡[17]は、スウェーデンにあって日本にないのが「制度や政治に対する信頼という無形の社会資本」だとしています。日本が壊れつつあるからそのような信頼がなくなったのか、もともと制度や政治に対する信頼が弱かったから日本が壊れていくのか──買ったまま積み重ねていた本を短い夏休みにあわただしく読みました。その雑感です(敬称略)。

[1]石原伸晃・塩崎恭久・根本匠・渡辺喜美『日本経済起死回生トータルプラン』光文社、2001
[2]経済産業省編『産業構造ビジョン2010』経済産業調査会
[3]岩田規久男『「不安」を「希望」に変える経済学』PHP研究所、2010
[4]小峰隆夫編『政権交代の経済学』日経BP社、2010
[5]伊藤敏安「現政権における地方分権の動向」(暫定版)、地域経済研究推進協議会『地域経済研究資料1001』2010年6月[ウエブサイトで公開予定]
[6]増田寛也『地域主権の近未来図』朝日新聞出版、2010
[7]齊藤誠『競争の作法』筑摩書房、2010
[8]城繁幸、小黒一正、高橋亮平『世代間格差ってなんだ』PHP研究所、2010
[9]小黒一正『2020年、日本が破綻する日』日本経済新聞出版社、2010
[10]上野千鶴子、辻元清美『世代間連帯』岩波書店、2009
[11]白波瀬佐和子『生き方の不平等』岩波書店、2010
[12]神野直彦『「分かち合い」の経済学』岩波書店、2010
[13]鈴木亘『社会保障の「不都合な真実」』日本経済新聞出版社、2010
[14]鈴木亘『年金は本当にもらえるのか?』筑摩書房、2010
[15]斎藤貴男『消費税のカラクリ』講談社、2010
[16]橘木俊詔『日本の教育格差』岩波書店、2010
[17]北岡孝義『スウェーデンはなぜ強いのか』PHP研究所、2010

投票に行こう(2)

● いつの間にか学内規定の昇級停止年齢を通り過ぎていました。企業によっては、定年退職後に備えた研修に呼び出されるころです。とはいえ日々の生活や仕事に追われて、退職後のことに思いを馳せる余裕はありません。もちろんときには「茶、花、香、焼き物に囲まれて暮らしたい」「“猫のしっぽ カエルの手”のような生活は理想だが、大原は寒そう」などと漫然と思い描くことはあるのですが。

● そんな呑気なことを考えていたところへ、読んだのが『世代間格差ってなんだ』(PHP研究所)。「子ども手当のような経常支出を赤字国債で賄うというのは、世代間格差を完全に無視した暴挙」、正規・非正規雇用労働者間の格差を打開するには「正社員雇用の流動化以外にない」といった指摘は強烈です。しかし、正論です。著者は城繁幸、小黒一正、高橋亮平の各氏。いずれも1970年代半ば生まれ、いわゆる団塊ジュニアです。

■ すべての若者を可哀相とみなくてもよいのでしょうが、団塊世代とそれより年長の人々は、おそらくは「明日は今日よりよくなる」という考えを自然に受け入れ、実際、何らかの形でそのような体験をしたことがあると思います。これに対し、団塊ジュニアかそれ以降に生まれた世代は、おそらくはそういう実感がほとんどないのではないかという限りにおいて、やはり可哀相といってよいのではないでしょうか。

● だからといって悲観しているわけにはいきません。同著では「ユース・デモクラシー」の構築をめざして、まずは政治への参加を呼びかけています。私も、選挙が近づくと2007年4月5日付けの本ブログ「投票に行こう」をコピーして、学部の授業で紹介しています。だれも変えてくれないのであれば、自分たちで行動するしかないというのもやはり正論だと思います。

医療は私的財

● 私は、この5年あまりで9人の外国人留学生を受け持ってきました。留学生たちは、ときに病気や怪我に遭うことがあります。これまで4回、入院した留学生のお見舞いにいきました(うち1回は出産のためのお祝いですが)。まもなく5回目のお見舞いにいかなくてはならないようです。

● 留学生のなかには国費留学生もいましたが、残りは私費留学生です。学内外の奨学金や授業料減免が連続して適用されるとは限りません。アルバイトでなんとかしのいでいるところへ治療費の負担が加わると、さらに厳しい生活を強いられることになります。とはいえ、留学生たちは国民健康保険に加入しています。年間少なくとも約16,000円を支払えば、30%の自己負担で治療を受けることができます。英国のNHSはともかく、外国人留学生を対象とした日本の医療保険もありがたいと制度だと思います。

◆ そんななか最近のわが国では、治療や手術を目的とする外国人の受け入れを促進しようという動きがみられます。2010年6月18日に発表された政府の「新成長戦略」のなかにも、そのような記述が出てきます。実は、これに類したことは、経済団体の人たちとの勉強会で検討したことがあります。李登輝氏が倉敷の病院に検査入院してしばらく経ったころのことです。「瀬戸内海の風光明媚な場所に病院をつくれば、裕福なアジアの人たちが治療に来て、お金を落としてくれるのではないか。病気によってはリピーターも少なくないのではないか」といった内容です。ところが、「地方では全般に医師不足なのに、外国人向けの医療を優先してよいのか」という意見もあって、それ以上に議論が深まることはありませんでした。

● 医療そのものは私的財です。便益が本人に帰着します。本人以外のだれかが同時に治療や手術を受けることはできません。しかし、そのひとの健康が維持・回復することにより、社会の安心が確保され、円滑な経済活動が保持されるといった外部効果もみられます。医療や介護は、通常の私的財とは異なる性格を持っているうえ、所得とは関係なく提供されることが望ましいため、「公的に供給される私的財」あるいは「準私的財」に含められることがあります。

● 海外の富裕層を対象とした高額医療の拡大や混合診療制度の導入によって、医療技術が発達し、医療関連サービスが充実するといった効果が見込まれることは否定すべくもありません。このことは認めつつも、世代や地域をこえて分かちあう保険制度の枠組みをちゃんと確認しておかないと、必要としているひとに適切な医療が供給されないようになってしまわないかということも懸念されます。

日本社会党の「地域主権」

◆ 2009年9月19日付けの本欄で「地域主権」という用語のことを述べました。その後気になるので、「日経テレコン21」を利用して、全国紙ならびに主要な地方紙・主要雑誌を対象に、この言葉の使用状況をもう少し詳しく調べてみることにしました。

◆ 「地域主権」という用語の初出は1990年3月30日の西日本新聞、使った人は武雄市長公室次長の井上一夫さんという方です。九州横断自動車道日田・長崎間の全通を機会に、同紙が沿線の関係者にインタビューをしています。井上氏は、「イベントを一過性のものに終わらせないため、受け身の補助金行政から脱して“地域主権”の確立を訴えていきたい」という主旨の発言をしています。1989年に行革国民会議が「地方主権研究会」を設置していますが、井上氏の用法は「地方主権」という言葉に感化されたのでなければ、まったくの独創といえるかもしれません。

◆ 次に出てくるのは1990年9月4日と11月7日の朝日新聞、いずれも社説です。ゴルバチョフ政権のもとでソビエト連邦を構成する共和国の一部に独立機運が高まり、おそらくはロシア語の翻訳なのでしょうが、これを「地域主権の確立」への動きと呼んでいます。ここでの「地域主権」とは、日本国憲法前文でいう対外的な主権・独立性のことを意味しているでしょうから、井上氏の「地域主権」や行革国民会議の「地方主権」とは異なるようです。この間、1990年10月23日の「週刊エコノミスト」がソ連特集の記事のなかで同じ言葉を紹介しています。それから2年後の1992年5月22日の毎日新聞では、リオの国連環境開発会議(地球サミット)に出発する日本代表団に対してNGOが提言書を渡し、そのなかで「住民・地域主権の尊重」という理念が提唱されているという報道があります。1992年以前に「地域主権」という言葉が出てくるのは以上の5件です。

■ 1993年5月14日の日経では、日本社会党が「政権への挑戦 93年宣言」(案)を発表したことが紹介されています。「93年宣言」の全文をインターネットから取り出して読んでみると、「小さな政府・大きな自治体」をめざして「中央政府の権限を大幅に委譲し、地域主権を確立する」とうたわれています。ここでの「地域主権」は日本国憲法第1条でいう最終的な意思決定権のことを意味しているようにもみえますが、むしろ「地域のことは地域に住む住民が決める」という現政権の語法に通じているように思われます。「93年宣言」に影響されたせいでしょうか、1993年には「地域主権」という言葉が日本青年会議所や日本道州制研究会(関西の研究者らによって1986年に設置)の会議などで使用され、ほかに18件も出てきます。

◆ 一方、民主党は1996年9月に誕生しました。実は、結党時の文書において「地方分権の推進と地域主権・市民自治の確立」を重点政策の1つに掲げています。このときから「地域主権」という言葉を使っていたのです。民主党の主な母体の1つは新党さきがけ、もう1つは社会民主党(同年1月に日本社会党から改称)。設立委員会の呼びかけ人は、鳩山由紀夫氏(新党さきがけ)、菅直人氏(同)、鳩山邦夫氏(新進党)、岡崎トミ子氏(横路孝弘北海道知事の代理として社民党から参加)の4人でした。1996年の民主党結党時の文書に日本社会党の「93年宣言」の考えが反映されていても不思議ではないのかもしれません。

     ※1996年には「地域主権」という言葉の出現数が前年の29件から133件に急増しています。同年11月にPHP研究所が創設50周年記念として『日本再編計画』を出版しました。そこでは「地域主権」のもとで「州府制」を導入することが提案され、メンバーの斎藤精一郎教授や黒川和美教授が日経の「経済教室」などで、この言葉を紹介しています。

仕事をつくるしかない

● 貧困、障がい、失業などによって社会的に排除excludeされた人々を社会に包摂includeしていこうとするのは、最も重要な政策課題の一つです。政府部門で十分に対応できないのであれば、民間部門で補わなくてはなりません。その意味で「派遣村」のような活動は評価すべきです。ところがボランティア団体などが運営している間はともかく、政府部門が介入しすぎると厄介な問題が持ち上がることがあります。

● 公園に住み着いて自発的に清掃などをしている路上生活者の中には、どこか毅然とした雰囲気の人がいます。そういう人、なんとかやっている人は「官製派遣村」に最初から来ないかもしれません。その結果、想定外の人たちが相対的に多く集まるおそれがあります(逆選択)。そういう人たちが「官製派遣村」に入ると、今度はルールを濫用してしまいがちです(モラルハザード)。報道によれば、年末年始を東京都の「官製派遣村」で過ごした人は500人超。就職活動費として1人2万円あまりを渡したところ、すぐに飲酒に遣ったり、無断で外出したまま帰ってこなかったりした者が少なからず出てきたといいます。

■ 12月31日付け共同通信で内閣府参与の湯浅誠氏──当初の「派遣村」の主宰者です──のインタビュー記事をみました。記事の見出しは「危うい“区分け”偏見残る」。職業相談や生活支援を一つの窓口でおこなう「ワンストップ・サービス」への協力を依頼して回ったところ、ある市長から「ホームレスが来るのならしない」といわれ、15年前と「偏見が変わっていない」と感じたということです。が、これは市長や市議会の立場になってみれば理解できないことではありません。所得再分配にかかわる仕事を特定の地方政府に過度に委ねてしまうと、担税力とは関係のない人たちが集中するといった問題につながるからです(地方分権の失敗)。

● 中央政府の重要な役割は、所得再分配とともに金融財政政策です。英国の福祉政策の理念としてブレア内閣から使われている“welfare to work”は、社会的に排除された人たちを福祉の対象者から労働の主体へ適切に誘導することを意味します。紹介しようにも仕事がなければ無理なのは道理。まずは仕事をつくり出さなくてはなりません。であれば、2008年12月12日付けで提案した「Green Public Works」などは大いに検討に値するのではないか。

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