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机と砂の不仕合わせ

■ いくら重要だからといって政策実現性となると首をかしげたくなるものがあります。最近では自動車部品の共通化に関する研究会がそうです。東日本大震災に加えてタイの水害が起こり、供給連鎖は大いに乱れました。だからといって部品を共通化して、いったいどのような自動車をつくろうというのか。たとえ同じメーカーの自動車やマンションであっても、部品や材質が違えば異なる財とみなされます。これが消費者主権ということです。

■ 部品の共通化は、自動車のさらなるコモディティ化を意味します。そうなると日本企業の戦略は根本的に変わらざるをえません。あるいはM&Aにも匹敵する高度な経営判断にかかわる問題といえます。いずれにしても行政主導の研究会で議論して、どうにかなるような問題とは考えにくい。官僚出身の髙橋洋一氏や古賀茂明氏がしばしば指摘するように、机上の空論といわれかねません。むしろほかの政策課題を犠牲にすることの機会費用が高くつくことが懸念されます。

■ 一方で、企業の側はこれらの事情を学習してきたようです。最近の行政主導のプロジェクトや研究会に派遣されるのは「標準化要員」と呼ばれる人たちであり、補助金でも獲得できればと割り切っているのだそうです(池田信夫『イノベーションとは何か』)。

● 自動車部品の共通化に関する研究会の設置に際しては、少なくとも産業組織論などの研究者に意見を求めるくらいのことはしてもよかったのではないでしょうか。ゲーム理論などを駆使した経済学は、もちろんさまざまな前提のもとに成り立っています。いわば砂上の楼閣のようなところがあります。そのまま現実に適用できるわけではありません。とはいえ、論点をあらかじめ整理したりすることには参考になるはずです。

■ ところが困ったことに、こういった「新しい経済学は市場の欠陥を理論的に突き詰めていくという形で政策論議からは大きく遊離し、どちらかといえば象牙の塔に閉じこもる道を歩んできた」といわれます(松井彰彦『不自由な経済』)。これは従来の経済学に対する反動でもあるらしい。一方で机上の空論を振りかざし、他方で砂上の楼閣に閉じこもりがちであるのは、社会全体からみればお互いに不幸なことだと思います。

不安定な常態

● 書店に行くと、タイラー・コーエン(ジョージ・メイソン大学教授)の『大停滞』の翻訳が出版されていました(池村千秋訳、NTT出版、2011年9月)。2011年春先に評判を呼んだ本です。原著はウェブで公開されていた程度の分量なのですが、内容は重い。たとえば、次のような主旨の指摘をしています。

・ 人々は、過去300年以上にわたって、いわば「容易に収穫できる果実」の恩恵を享受してきた。しかし、1970年代半ばごろから、それが手に入りにくくなった。
・ 生産性と生活の質の向上に直結するイノベーションの出現は19世紀末にすでにピークを迎えており、現在は停滞期にあたる。
・ インターネットは重要なイノベーションの1つだが、これまでのイノベーションのように「公共財」というより「私的財」の性格が強い。恩恵があまねく行き渡るとは限らない。アメリカですらインターネット関連の雇用吸収力は限定されている。
・ 中国やインドの参入は「果実」の一部ではあるが、いまのところイノベーションを生み出しているわけではない。
・ 経済に占める政府部門のウエイトが肥大化しているなかで、経済成長の本質が見えにくくなっている。実質2~3%という堅実な経済成長すらもはや期待することはできない。
・ 日本人は、経済の停滞と共存する方法を見つけている。低成長時代の生き方のお手本となる。これは、かつての高度経済成長に匹敵する偉業といえる。

● そういえば、連続的な意味での改善・改良はあっても、パラダイムやレジームの変換を伴うほどのイノベーションというのは、なかなか見当たりません。だから当面は、過去に経験したことがないほどの景気後退を覚悟しなくてはならない──このような現状をコーエンは“New normal”と呼んでいます。いわば「常態」ということです。

● かといって、コーエンは将来に悲観しているわけではありません。時間はかかるけれども、手の届く範囲に「果実」を実らせるためには、科学の振興に努めるとともに、政治の機能不全を抑制する必要があるとしています。

● 先ほどノーベル医学・生理学賞の発表がありました。今回は日本人の受賞はありませんでしたが、ノーベル賞受賞研究のような科学の「芽」がやがて「果実」をもたらすのだと思います。では、政治はどうか──。松井彰彦(東京大学教授)の『不自由な経済』(日本経済新聞出版社、2011年7月)のなかに興味深い指摘を見つけました。「私たちは後世の人々に、あの時代は本来は暗い時代であったにもかかわらず、“先人の知恵”で特別な時代になったといわれるよう努めなくてはならない」というものです。この文章の初出は政権交代後の2009年12月なのですが、いまなお銘記すべきと思います。

裃は脱がない

● 子どものころには、身近に厳格な老人が少なからずいたように思います。士族、郷士、名主の気風を伝えるお年寄り、元士官あるいは元修身教諭といった人々のことです。箸の上げ下げから返答の仕方まで、口を挿まなくとも、近くにいるだけで子どもにも緊張感を抱かせる大人たちでした。神島二郎は、武家のエートスが明治の庶民の家庭に大衆化され、近代日本の精神構造を形づくったという主旨の指摘をしています。1960年前後ごろまで、そのような行動様式を体現したお年寄りが確かにいたのです。

● 神島のいう「近代日本」は過去のものとなり、ポスト・モダンが模索されているなかで、人々の行動様式が変化するのは仕方ありません。それにしても、自己規律のようなものまでガラガラと音を立てて崩れ落ちてしまうのは心外です。これを加速させているのは、最近では「クールビズ」ではないでしょうか。ネクタイを締めたスーツ姿だからまだしも見られるものの、腹の突き出た中高年の男たちがだらしない格好をして、ほんとうにビジネスになるのか。

● 男のクールビズを辛辣に点検した「大手町ホンネガールズ」によれば、ネクタイとスーツで身を固めたフランス人トップが勤務先に来たとき「ダラダラ流れる汗をぬぐいながら、絶対に脱がなかった」ということです。ネクタイとスーツは男の「戦闘服」であり、女にとってはハイヒールに匹敵するからだそうです(日本経済新聞電子版、2011年7月6日)。

● アメリカ西海岸の経営者たちのラフな身なりに合わせようとすると、かえって隙を衝かれるおそれがありそうです。ネクタイとスーツを着用して交渉に臨むのがむしろ戦略的といえるかもしれません。「節電が要請されているのに、何を馬鹿げたことを」という反論が予想されますが、資源・エネルギーのような重大問題について綿密な議論をするためにも、一定の条件が保持されたビジネス空間が必要です。団扇をパタパタさせたり、サンダルをペタペタさせている職場では、その程度の考えしか出てこないような気がします。

● 特に政治家やお役人はそうです。率先してネクタイとスーツを着用すべきと思います。女性であれば、なでしこジャパンのメンバーが着用していたスーツはどうでしょうか。以前、東アジアの国家元首の来日時に「カジュアルな服装で会談しましょう」と提案して断られたことがあります。安全保障、外交、通商といった重大問題をノーネクタイで議論するのは、やはりどうかと思います。政治家やお役人は代理人です。依頼人である有権者や納税者の前では裃姿がふさわしいといえます。

● ある役所で書類手続きをした帰り道、こんなことをぼんやり考えていました。暑さのせいでどうかしているのではないかと非難されそうですが、慶應義塾大学の阿川尚之教授の快活な提案に出くわして、あながち荒唐無稽とはいえないかもしれないと思うようになりました。同教授によれば、失われた精神性を取り戻して厄災を乗り越えていくためには、各地に殿様を復活させればどうかということです。「知事、町長、村長、地元出身の国会議員、大臣、みな羽織袴でお城に上り、平伏して殿様に伺候する。儀式はあくまで厳粛に行う」のだそうです(産経新聞「正論」2011年7月25日)。私の暴論と同じく突拍子もない着想に見えますが、「殿様」を市民や納税者の象徴と考えれば首肯できなくもなさそうです。

大学教員の身なり

● テレビで活躍するシンクタンクの研究員やコンサルタントの服装は、男女を問わずきちんとしています。かれらは、身なりを通じて「ちゃんとしたコメントですよ」というシグナルを発信しているのだと思います。変わった出で立ちだと、注目を集めてもせっかくのコメントのありがたみが薄れるかもしれません。

● これに対し、研究室などでインタビューを受ける大学教員の中にはノーネクタイの者が少なくありません。これはむしろ「通常の人とは違う専門家ですよ」というシグナルを発しているからでしょうか。IT企業やマスコミの関係者の中にノーネクタイの人が少なくないのも、伝統や慣習にとらわれないということを暗示したいのだと思います。もちろん、たいていのビジネスパーソンの服装はきちんとしています。Economistのある英国人記者のコラムによれば、夏に日本企業を訪問すると蒸し暑い部屋に通され、「すみません。クールビズ中ですから」といいながらノーネクタイの男性社員が出てくることに閉口するといいます。言い訳をするのは「夏は例外ですよ」ということを伝えようとしているのだと解釈されます。

■ 大学教員は、いつもラフな格好かというとそうではありません。例の「白熱教室」のマイケル・サンデル教授は、授業中でもネクタイと上着を着用しています。英国人か英国で学んだことのある外国人は、なんとなくきちんとしていそうな感じがします。逆にアメリカの大学では、テニュアがあるのに身なりが整いすぎている教員は「学外のことに時間を取られているのではないか」と訝しがられるのだそうです(タイラー・コーエン『インセンティブ』)。

● こういったシグナルやカウンターシグナルによる説明を持ち出さなくても、実は理屈以前の要因もあるようです。授業では90分の間に大きな声でしゃべったり、板書をしたり、教壇を動き回ったりします。ネクタイと上着を着用していると窮屈です。ましてや授業が終わったあとで上着をみると肩から下は真っ白になっています。黒板とチョークと使うときはなおさらのこと、ホワイトボードとマーカーを使用するときでもそうです。案外、この直截的な理由のほうが当たっているのではないでしょうか。

● 新学期が始まりました。私はマーカーもチョークも苦手なのですが、心して授業に臨みたいと思います。

留学生と投資家

● 留学生のCくんは、中国語(北京官話)、英語、マレー語のほか、広東語、上海語、閩南語などに通じています。自分のホームページでもそのことを紹介しています。これをみたアジア企業から「日本に行くので通訳をしてもらえるか」という打診があり、かれはお手伝いをしたことがあります。

● 昨年のことです。Cくんは、学費の一部を自分で稼ぎたいと思って、母国からあるものを輸入しようと考えました。それは、比較優位や運賃負担能力からみて「なるほど」と感心させられるものです。かれは、簡単な企画書を作成してあちこちに提案して回りました。当然、たいてい門前払い。ところが、しばらくして広島のある老舗の経営者が支援してくれることになりました。その投資家にとっては、まったくの新分野進出です。

● その経営者とCくんは、まずは現地の仕入れ先を確保する一方、主に大阪を中心に販路を開拓していきました。まだ細々とはしていますが、なんとか事業として成立しつつあるようです。

■ 地域の活力の源泉は、1つには知識創造・イノベーションとそれを担う人材、もう1つは企業投資です。企業に所得移転をしても付加価値は生まれてきません。地域内外の企業に投資をしてもらわなくてはならないのです。ケインズ流にいえば“animal spirit”というべきCくんの着眼と熱意に敬服すると同時に、広島の投資家の慧眼を尊重しなくてはなりません。こういう人材と取り組みが地域に新たな雇用と所得と税収を生み出してくれるのです。

● Cくんは、広島に残れば有利な奨学金の受給が内定していたにもかかわらず、ある私立大学の博士課程に進学することになりました。ある意味で居心地のよい広島にとどまることは、かれの研究にとっても「事業」にとっても、結局は機会費用(あきらめて犠牲にしたこと)が高くついたかもしれません。慶賀して東京に送り出したいと思います。

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